その日、私は渋谷のハチ公前でダチ公を待っていた。

　さすがに日本一高名な待ち合わせ場所だけあって、どこを見てもあふれんばかりの人でごった返している。

　待ち合わせの待ち方も様々である。

　やたらと時計を気にしながら神経質に待つサラリーマン。その横には待ってんだか遊んでんだか不明な若者たちの集団。はたまたやおらギターを弾き始める国籍不明のカップルまで、やはり天下のハチ公前といった感がある。

　ここで注目しなければならないのは、彼らの待つ位置にある。広場の真ん中にポツリ待つ・・・ということはまずない。ほとんどが、交番の脇や植え込みの横、そして忠犬ハチ公像そのものの周りなど、なんらかの造形物に寄り添うかたちで佇んでいる。

　無意識のうちに、そうしてしまっていたこの待ち人たちの心理こそ、じつは川の中に潜む魚たちの心理に限りなく近い。

　さらに決定的なのは、広場正面にある駅ビル出口に注がれる、彼らの一瞬をも逃さぬ鋭い目つき。これこそライズの瞬間を待つ獰猛なマスたちの目そのものではないか。

　「やっぱり、ここだったのか・・。」

　思っていた通りであった。　

　ＦＦ、エサ釣りを問わず、ごく一部の渓流釣り師の間で、─都内のある場所に、禁断の釣り場がある─といったウワサが流れ始めたのは、僕がＦＦを始めてまだ間もない頃だった。

　その頃は気にもかけず聞き流していたが、度重なるここでの待ち合わせに、ある日フッとそれがここであるような気がしてきた。

　そんなバカげたことがあるはずがない・・・。なんとか忘れようと心がけたが、此処に来れば来るほど、見れば見るほどその思いは決定的なものになってしまった。

　場所で考えるならば、似たような場所はほかにもいくつかある。しかしここがほかのそれと違うのは、その待ち人の絶対数と、大量に吐き出される人の波が、駅ビルの出口ひとつに制約されるところにある。

　僕は今日、ひそかにそれを試みてみるつもりでやって来ている。

　さしあたって情報は何ひとつない。まずは、渋谷駅全体でポイントを考えてみた。

　渋谷駅の人の流れは複雑で、本流のＪＲ山手線には営団地下鉄銀座線、井の頭線、新玉川線などの私鉄各線の支流が、その流れを注ぎ込む。

　どこのポイントでも魚影は濃すぎるほど濃いが、まず本流支流のぶつかりであるホームや階段といった構内では望みが薄い。なぜなら彼らの行動はあまりにもせわしなく、直線すぎるからである。

　それなりの釣果を望むなら、やはりそのすぐ脇に出来ている、犬の銅像が建つこの大きなプールに的を絞るべきであろう。

　もちろん、繊細でシビアな釣りが要求される。

　ここはいみじくも渋谷であり、獲物のスレ方ときたらハンパではないからだ。

　それに彼らを狙うのは、なにも釣り師ばかりではない。古くは獲物にそっと忍び寄るスリ師や、アンケートで釣って高額な賞品を売りつけるサギ師。それに言わずと知れたナンパ師。外国からは伝道師までやって来る。

　さらに最近増えているのが、「君、プロポーションいいネ。ちょっと話させてもらえないかナー」などと名刺を使って巧みに言い寄る、スカウト師。

　彼ら百戦のワザ師を向こうにまわして、いかにＦＦで釣るか・・・である。

　しばらくプールを眺めていると、そこにいるのはマス類だけでないことに気がつく。顔つきや魚体形状、しぐさや特性まで考え合わすと、フナ、コイ、金魚といったものから、フグ、ハゼ、アンコウにいたる淡水性、海水性のものが入り乱れて存在している。

　しかし、ここはＦＦＭである以上、マッチ･ザ･ハッチで活性の高い若いマスを釣り上げなくてはならない。

　たとえば・・・。たとえば斜め前方、新玉川線降り口の横にたたずむシャトルグレーのタイトなツーピースをまとった長髪の若いメスを狙ってみる。

　まずは、キャスティング圏内に近づかなければならない。しかし、ここではストーキングは不要である。釣り師があたりの風景に同化することが、いとも簡単に出来るからだ。

　おもむろに、ズボンのポケットに忍ばせてある５ピースのパックロッドを右手で確認し、やおら身の丈ほどもあるどでかいフライケースを肩にかついで歩き出す。

　ここで注意しなければならないのは、不用意に獲物に目線を送らないことだ。間違えても目線を合わせてはいけない。あくまでもここは渋谷である。相手が美しい獲物であればあるほど、無用な警戒心を生ませてしまうことになる。

　ハチ公像の裏に入ったところで、すばやく身をかがめる。さらに彼女との間にある植え込みの陰に身を潜めて、手早くタックルを組み込んでフライケースのジッパーを開く。

　さて問題はフライの選択である・・・。

　身のこなし、装いからして、かなり品の良いメスであることは先ほどから気が付いている。

　まずはパイロットフライである。等身大の加瀬大周をデッドグリフトで流してみることにする。キャスティングにも細心の注意を払わなくてはいけない。あくまでもループの位置を高くして、シャープなヘアピンルーフを心がける。

　なにしろ使用するフライが大きいだけに、周りのものをなぎ倒す危険性もあるし、ヘタをすると等身大の加瀬大周が後頭部に突き刺さることになる。

　駅ビルから新玉川線に乗り継ぐ人波の中に、私はそっと加瀬大周をプレゼンテーションした。細かくメンディングを繰り返しつつ、フィーディングレーン上をデッドドリフトで流す。オブザベーションポイントの少し手前あたりから、軽くティップでアクションを加えてみる。

　使用したマテリアルの特性を、見事なまでに生かしきったこの微妙な動きこそが、女心を魅了する怪しげなそれでいてチャーミングな雰囲気をかもし出す。

　しかし彼女がライズするであろうポジションにいたるまで、幾度となくよりチャーミングな加瀬大周を演出したにもかかわらず、この育ちの良さそうなメスは一瞥をくれただけで、まったく興味を示してくれない。

　・・・失敗である。もはやトレンディードラマは、ナウくないのである。

　あわててフライを付け替え、その後、桑田佳祐、貴花田とジャンルを広げたにもかかわらず、結局彼女の興味を引けずじまいに終わった。

　こうなると、マッチ･ザ･ハッチの釣りは期待できなくなる。見た目だけで、彼女の好みや特性、習慣まで見取るには、釣り師の膨大な過去の経験が必要になってくるからである。

　さしあたって、諦めざるをえない・・・。

　少し場所を移動して、先ほどから広場の出口付近にたむろっている若者たちを狙うことにする。彼らがいたいけな金魚をいたぶりに来た、一連のワザ師たちの中のナンパ師であることは一目瞭然である。

　彼らがマスであるかどうかは解からない。しかし、フッキングと同時に勢いよく走るパワフルな引きは捨てがたい。

　やはりフライに気を使いたい。使用する金魚はあくまでも金魚でなくてはならない。まちがえても、立派な水槽で泳ぐようなメス魚をイミテートしてはいけない。彼らは、それらハイグレードなメス魚が自分には引っかからないことをよく知っているからだ。

　あくまでも金魚。それも都会に住み始めて一年未満といった、鮮やかな地方色がフライの中にありありと表現されていればなお良い。

　大切なのは、彼女らが思い込んでいる間違った都会っぽさを忠実に再現してタイイングすることにある。

　彼女たちは限りなくトレンディードラマばりの恋愛を望んでいる。したがって彼女らを釣る気になれば、先ほどの等身大の加瀬大周、もしくは織田裕二、グッと形をくずして布施博までほぼ入れ食いになること間違いない。

　しかし、とにかくバカ釣れする釣りはやらない。

　ナンパ師用のフライを出す。このフライのポイントは、ワイドゲーブのフックのベンドにある。このしなやかな曲線を利用して、見事なまでの魅力的なヒップラインを生み出している。

　ちょっと長めのシャンクにはパールカラーの配色に気を配り、所々ティンセルや原色のマラブーといった光り物で、さりげなく地方色を演出してある。

　群れの最後尾から、ていねいに狙う。

　「ヘイッ彼女！買い物付き合ってあげようか？」

　・・たしかな手ごたえである。

　さすがに日本一といわれる渋谷のナンパ師だけあって、ヒットした後も簡単に諦めない。くわえた金魚をグイグイ引きまくり、ブレーキをかけていたリールから１００ヤード巻いてあったバツキングラインを、すべてあっという間に出しつくしてしまった。

　ティペットを切られないように必死に後をついて行き、道玄坂入り口付近でやっとのことで取り込み、僕はすかさず釣り上げたナンパ師をネットの柄でガツンと気絶させて、元の場所へと走って戻った。

　それからおよそ三十分の間に、僕は残りのナンパ師すべてを釣り切ってしまっていた。

　思惑どおり金魚のフライの威力を確かめることが出来て、思わずほくそえんでいると、僕を一時間も待たせた友人が小走りに現れた。

　あわてて僕はロッドとタックルをしまい込み、何食わぬ顔で多少の小言を彼に伝えていると、突然、僕らは広場じゅうの若いメスたちに囲まれ始めた。

　・・・そうである。彼は最近メキメキ売り出してきた人気のコメディアンだったのである。

　これは意外なことだった。彼はスタイルも良くないし、顔もたいしたことないのである。握手を断る彼の横で、僕はひそかにパイロットフライとして、いくつかのコメディアンのテレストリアルを巻いてみることを考えていた・・・。

　待てど暮らせど現れぬ友人に、少々くたびれた渋谷ハチ公前にて・・・。